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神谷塾的勉強と受験と子どもの教育
札幌で学習塾を営む神谷が、日々生徒と接しながら考えたことをつづります。  おすすめの勉強法や高校・大学受験、教育全般に関する話題を書いていきます。  ★コメントには必ずお返事します★

プロフィール

神谷英樹

Author:神谷英樹
1962年、愛知県知多郡に生まれる。
1981年、愛知県立半田高校を卒業。
1983年、予定外の2年の浪人生活を終えて北海道大学に入学。
1988年、北海道大学理学部地球物理学科を卒業、地質コンサルタント会社に入社。浦和市(当時)にあった研究所に勤務。
1995年、どうしても北海道に戻りたくなってその会社を退職。札幌市内の学習塾で講師の職を得る。
2001年、独立開業。屋号を神谷塾とする。
家族は妻と大型犬1頭。息子2人は東京在住。趣味は物理と化学と野球とギターとベース。



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日本語で学問ができる幸せ

私が大学生だった1980年代後半、地震学を専攻する大学院生とか意欲的な学部生は手に取るべしと言われた教科書があった。Aki & Richards “Quantitaive Seismology Theory and Methods” (定量的地震学:理論と方法)という本で、「アキ・リチャ」と愛称された洋書。ハードカバーで2分冊で合わせて1万数千円したと思う。いちおう地震学をやりたくて大学に入り、ナマケモノでロクデナシのくせに「意欲的な学部生」でありたいという思いだけは強かった私は、当時「弾性論」(地震学の基礎理論のひとつ)の担当だった笹谷先生がこの本をネタに講義をしているという話を聞いたせいもあって、無理をして自費購入に踏み切った。やがて注文していた札幌の丸善から連絡を受け、いそいそと引き取りに赴き、下宿に戻ってサアやるぞと読み始めたのだが、わずか数頁で挫折する。英語の記述がハード過ぎて進まないのである。今であれば学科の図書室にあったそれを1時間なり読んでみてイケそうかどうか確かめ、こりゃ無理だと諦めたはずであった。高価だったし。

それでも一応「神谷がアキ・リチャを持っている」ということは学科内の知るところとなり、同期で最も優秀だった小平秀一君が「読まないのならぜひ貸せ」というので「どうぞ」と貸した。小平君は大学院進学後きちんと博士号を取ってまず北大の助手になり、後に独立行政法人海洋研究開発機構に職を得ている。立派になったものである。その畏友・小平君からノートを借りたりしてどうにか卒業した程度の私としては彼の学問にちょっと関われたのが嬉しくなくはない。その本は私が学部を卒業する時には戻してもらい、専門筋で就職してからも何度か読もうとしては挫折し、やがて電気探査法が専門になってからは完全に離れたが、「いつかは読んでやろう」としぶとく思い続けていて、今も私の自宅の本棚にある。人生はあと20年くらいはあると思うので、まだ「いつか読む」と目論んでいるのである。

それにしても英語がハードだ。誰か翻訳しないものだろうかとずっと思っていたが、ボリュームが大きすぎて難事業だったのだろう。それが2004年になって、古今書院からついに出た。『地震学 定量的アプローチ』という書名を書店で発見したときは、自分がまだ持っているアレの翻訳に違いない、とピンと来たものである。原典と訳本を両方持っているのも無駄な気がしたし、訳本も16800円と高価なので購入は見合わせたが、いま私が学生であれば訳本を買うであろうし、学生に相談されれば迷わず訳本を薦める。日本語のほうが読み易いに決まっているし、到達する高さに違いはないからである。

専門を極めるつもりなら最初から原典にあたるほうがいいという話も聞くし、将来英語などで論文を書くときのメリットもあるのかも知れないが、多くの平凡な学生にとってはやはり日本語の本が与しやすい。なにより理解のスピードと深さが違うし、それを読む目的は地震学なら地震学を学ぶためであって、英語の読解力を磨くためではないはずだ。

けれども、同じアジアでもインドとかシンガポールではみんな英語で学問をしているのだろう、日本人は日本語でやろうとするからだめなのではないか?と考える人もいる。だが英語で学問をするのがそんなにすごいのか?

かのノーベル化学賞の鈴木章氏はたまたま見つけた英語の洋書が面白くて一晩で読破し、その著者の下で学ぶためにアメリカへ飛んだということである。すごい話だと思うが、当時は専門書の邦訳はあまりなくて「やむを得ず」という面もあったのだろうし、英語の専門書を読みこなすだけの専門的素地があったからできたことではないだろうか。(違っていたらすみません)

私はいま専門でもなんでもない有機化学の教科書(『マクマリー有機化学』)を訳本で読んでいるのだが、これがもしも英語だったら絶対ムリだぜ~と思うことがよくある。たとえば第9章「立体化学」に出てくるエナンチオマー enantiomer とかレボロタトリー levorotatory とかデクストロロタトリー dextrorotatory などという術語は、それぞれ鏡像異性体、左旋性、右旋性という日本語が提示されているから意味の見当はつくし、理解しようという意欲も起きてくるわけである。また chiral や achiral のように適当な日本語がない術語も、カタカナでキラル・アキラルと書かれていれば頭にスッと入ってくるところがある。英語で書かれているだけでは読み進むのがムリである上に化学の勉強をやめてしまいかねない。それはもったいないことである。なお、この本の演習問題の解答冊子は洋書しかなく、私はやむなくそれを使っているが、日本語でその辺を一度読んでいるから英語の記述もなんとか読めるわけである。

日本語で学問ができるのは有り難いことである。専門家になれば必要な本が洋書で出たばかりであったりして、それを読む以外にないという場面も増えていくのだろうが、それまでに専門のアタマを磨いておけば英語であろうと何語であろうとやっていけるのであろう。

逆に、日本語でやるからには日本語での正確な表現を心がけなくてはならない。それは(程度問題だが)中学生であろうと同じことである。だから中学生に理科を教えるとき、記述の表現が下手な子に「日本語で理科をやってるんだから日本語がまずいのはだめだぜ」と言うわけである。

ところで、最近読んだ本のうちの3冊で、偶然にもこの思いを裏付ける趣旨の記述があったので紹介しておきたい。いずれも赤字は神谷。

●鳥飼久美子『「英語公用語」は何が問題か』(角川oneテーマ21)
「そもそも日本は世界に冠たる翻訳大国なのだから、それを生かさないのは惜しい。日本語を学ぶ外国の人たちの学習動機は、日本のマンガやアニメなどのポップカルチャーに惹かれる場合が多いが、もうひとつ目立たない動機があり、それは『日本語ができれば、世界中の本が読める』ということである。私が通訳学や翻訳学の理論書を日本語訳したのは、韓国の研究者から『日本語での理論書があれば読めるので助かる』と言われたことが契機となった。日本の翻訳文化が世界を結びつけることになるのも、あながち夢物語ではないと思う。」
(第1章 pp.43-44)

●立花隆・佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方~必読の教養書400冊』(文春新書)
佐藤「…私は、外交官や通訳など職業的に外国語をマスターしていることが必要な人を除けば、外国語が得意でなくてもかまわないと思っています。逆説的な意味じゃなくて。
 一般論として、外国語によるコミュニケーションが発達していない国では、翻訳文化が発展するんです。実際、現在フランスやロシアではドイツよりも外国語の翻訳が非常に多いんです。日本もそうですね。重要なのは、外国語から自国語へ翻訳する過程で、自分たちの文化になじむように文章を咀嚼するから、思想的な深みが増すことです。
 それに、外国語の学習にはものすごい時間がかかる。そこに過剰なエネルギーを割くことは時間の無駄だと思うんですね。…」
(第5章 pp.231-232)

●成毛眞『日本人の9割に英語はいらない~英語業界のカモになるな!』(祥伝社)
「インドでは19世紀から高校も大学も授業はすべて英語で行われている。中産階級以上の人は英語のネイティブスピーカーであり、英語が話せるインド人は9000万人にも及ぶといわれている。加えて、インドの書店に置いてあるのは、ほとんどが輸入ものの洋書だという。
 そう聞いて、『インドはそんなに進んでいるのか』『日本はインドに負けているのではないか』と驚き、焦る人もいるかもしれない。
 インドの事情に詳しい北海道大学の中島岳志准教授によると、インド人は日本の大学では日本語で授業が行なわれていると知ると、驚くのだという。日本人の英語力の低さに驚いているのではない。日本人が母国語で自然科学や社会科学といった高度な学問を学べることに驚くのである。
 インドはイギリスの植民地だった歴史がある。インド人がエリートの道を歩むには英語を学び、英語で西洋発の学問を学ぶしかなかった。
 インドの公用語はヒンディー語であり、英語は準公用語である。だがヒンディー語もインド人全員が話せるわけではなく、地域によって使う言語は異なる。大学の授業をそれぞれの言語で行なうのは不可能なので、結局、英語を共通語にするしかないのである。」
(はじめに pp.3-4)



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